2010年4月28日

国民の政治的成長の必要性

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 2:08 PM

ここ数年来の国民の国政に対する期待感や不満感が錯綜する中、昨年9月に民主党を中心とする連立内閣が誕生したが、今だ、明確な「わが国の将来像」が国民に示されていない。
つまり、この状況は、軍事用語の「戦略」「戦術」「戦闘」という概念規定で仕分けすると、大局を示す「戦略」部分が明確でなく、むしろ中・下位の「戦術」「戦闘」に分類される政策や施策がほとんどであると言っていい。

プロセインの将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツは、彼の著書「戦争論」の中で「戦争とは政治的行為の連続体であり、この政治との関係によって戦争は、その大きさや激しさが左右される」とした上で、「『戦略』そのものが間違っていれば、下位の『戦術』『戦闘』がどれほど成功したとしても、勝利には結び付かない」としている。

このことは、平時のわが国にあっても「戦略」としての明確な国家の将来像がなければ、国家間での国際競争を勝ち抜くことは非常に厳しい情勢にあるといえる。
また、政治家に対する不信は、ますます国民を政治から遠ざけているが、かって「金を儲けるのが何が悪い」といって憚らなかった経済人たちが、国民の意識変化により糾弾されたのと同様に、国民自らが政治的に成長することにより、現在の古い体質の政治を変え、「国民が望む国家を創生しよう」としない限り、日本の将来はないと言える。


2010年2月16日

「生きがい」が持てる福祉政策への転換 ―憲法第13条(幸福追求権)の具現化―

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 2:09 PM

バブル経済が崩壊し、さらにリーマンショックで大きなダメージを受けた日本国民の困惑は、国民の平均的な生活水準が向上する中で、国民の個性化・個別化が進展し、社会から取り残され「自死」を選ぶ国民や、介護地獄から抜け出せないでいる家族、貧困に苦悩する国民等が増加するなどの形で現れ、新たな社会問題が発生している。

戦後のわが国は、憲法第25条で、戦争に疲弊した国民に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を約束し、生活保護法といった福祉三法を成立させた。これは、国家が国民を階級社会に存在する階級からの抑圧を解放する「救済」の意味合いとして、平準化と均一化をめざしたものであったが、国民にとっては少なくとも最低限度の生活の安定は確保された。

「福祉」は、本来国民を幸福にすることを目的とするが、現在の新たな社会問題の解決には、戦後以来の階級闘争的解決を主たる基盤とする現在の福祉政策では充分には機能しないと思われる。

現在の問題解決には、現代社会に相応しい生きるための「生きがい」とも言える価値観やその具体的な対象(たとえば働く場所・趣味の場所等)を、国民に与える先駆的な新たな発想の福祉政策が必要である。つまり、憲法第13条が認める「幸福追求権」の具現化が求められている。


2009年11月25日

「家庭の在り方」の見直しと、「普通の人々」の社会における使命感について

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 11:08 AM

憲法第25条の理念と現実の社会状況との格差

わが国は、憲法第25条で、国民に、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とし、また、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」としています。

しかし、社会福祉の現状は、平成20年の第59回社会保障審議会介護給付費分科会において、全国老人福祉施設協議会副会長の中田清委員が、「特別養護老人ホーム入所待機者は全国で45万人に達するのではないかと考えられます。これらの入所待ちの要介護者と家族の実態は、『老老介護』、『認認介護』といわれる状況にあり、中には介護離職せざるを得ない人も増えています。さらに、介護疲れからくる『高齢者虐待』も一向に減らない現実が、私たちの現場に重く圧し掛かっています。」との発言からも窺われるように、憲法が国民に対して保証している理念と比べて大きな格差があると言わねばなりません。

「社会福祉基礎構造改革」の隠された理由

厚生省は、平成11年6月24日に、「個人が尊厳を持ってその人らしい自立した生活が送れるよう支えるという社会福祉の理念に基づいて」との理念の「社会福祉基礎構造改革」を発表し、改革を進めてゆきました。

しかしこの「社会福祉基礎構造改革」には「高齢社会の進展が国家財政に与えるコスト負担を軽減するため」という隠された理由があり、これが背景となって憲法の理念に逆行する社会福祉の状況を作り出しました。「施設介護」から「在宅介護」への転換が入所待機者の増加を生み出し、悲惨ともいえる在宅介護の現場が出現したのです。

国民は改めて、家庭での役割・義務を果たすが必要があること

社会福祉現場の改善には、「社会福祉基礎構造改革」後の施策の見直しが急務であると考えますが、一方で在宅介護の現場である「家庭の在るべき姿」そのものも考え直す必要があります。

「家庭の在り方」について安岡正篤先生は、『日本の父母に』(致知出版社、平成21年10月30日復刻出版)の中で、「社会福祉といって、託児所や養老院、保護指導施設や、学校・教会等、ものものしい施設ばかり考えて、人類発生以来すたれたことのない、もっとも生命のある生活共同体の家庭というものを粗末にすることは、人間のもっとも愚かなことの一つと言わねばなりません。」と、「家庭」の大切さを訴えておられます。

在宅介護の現場は全国的に一家庭では克服できないほどの大変厳しい状況にありますが、少なくとも、まず自らの家庭の在るべき姿を検証し、欠けているものがあれば自らが補完する形で、家庭での責務を果たす必要があるのではないでしょうか。

住みよい国は「幸せな人や元気な人=普通の人」の使命感から作り出される

その上で、これから本当に大切なことは、国民の心の中にある家族の枠を超えて、弱い人や困っている人を助けようと言うこの気持ちを一種の使命感のレベルにまで深め広げてゆく必要があるということです。これは、社会福祉における「相互扶助の精神」を守り抜くという使命感でもあります。

とりわけ「普通の国民である『幸せな人や元気な人』は、幸せで、元気であることのお礼の気持ちを、心や体で表し、行動することという使命感を創り上げてゆくべきではないでしょうか。国民が喜んで自らの義務を果たしていけば、たとえ現在の社会福祉現場が厳しくても、必ず今よりもすばらしい、安心して、安全に暮らせる国が生まれると確信しています。

以上


2009年11月11日

政府は、国家の行く末を示す国家像を、国民に示す必要がある

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 11:08 AM

ベルリンの壁崩壊20周年を記念して11月9日に放映されたNHKの特別番組は、東西ドイツ統一後東西格差が縮小されているにもかかわらず、壁があった以前に戻りたいとする旧東ドイツの人々の増加が報告されていた。そしてその番組の中で、今何を望むかとの質問に「心配をなくしてほしい」との意外な答えがあった。

この旧東ドイツの人たちの思いは、日本で、バブル経済崩壊後自殺者数が11年連続3万人を超え、「老後に対する不安」や、「終身雇用制度崩壊による失業の恐れ」が増大しているわが国民の心情と同類と見て差し支えないのではないか。

わが国政府は、わが国民の持つ不安や懸念を解消する必要があるが、その解消方法を歴史に学ぶとするなら、英国が、第2次世界大戦戦時下の1942年に、戦後の社会保障制度の確立にむけて、「ゆりかごから墓場」までの基本となった「ベバリッジ報告」の発表が参考になろう。これは「5つの巨悪(窮乏・疾病・無知・不潔・怠惰)」に立ち向かう国家の意思を示したのである。この発表の結果、国民は安心して戦時下の生活に耐え、戦後の復興に向かったのである。

リーマンショック後の世界経済が停滞している中で、民主党政権は、国家の強い意志として「新しい国家像」を示すべきである。特に国家財政再建策を含めた、今後の社会保障制度や社会福祉の在り方を示したグランドデザインの発表が、国民と政府が一体となった形で国家発展に進みうる唯一の方策ではなかろうか。

以上


2009年10月25日

「社会福祉基礎構造改革」の新たな見直しの必要性について

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 11:07 AM

厚生省は、平成11年6月24日に「今後増大・多様化が見込まれる国民の福祉需要に対応するため、見直しを行なうものである」との趣旨で、「社会福祉基礎構造改革について」と題する改革の大綱骨子を発表した。

その理念は「個人が尊厳を持ってその人らしい自立した生活が送れるよう支えるという社会福祉の理念に基づいて、本改革を推進する。」としたが、現実の社会では、憲法第25条が、国民に、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とし、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とする理念に逆行する状況が生み出された。

それは、平成20年11月21日に開催された社会保障審議会第59回介護給付費分科会において、全国老人福祉施設協議会副会長の中田清委員は、「特別養護老人ホーム入所待機者は全国で45万人に達するのではないかと考えられます。これらの入所待ちの要介護者と家族の実態は、『老老介護』、『認認介護』といわれる状況にあり、中には介護離職せざるを得ない人も増えています。さらに、介護疲れからくる『高齢者虐待』も一向に減らない現実が、私たちの現場に重く圧し掛かっています。」と厳しい現場の状況を語っていることからも窺われる。

この憲法の理念に逆行する状況となった背景には、「社会福祉基礎構造改革」の隠れた改革理由の一つとして、高齢社会の進展は、国家財政に大きな負担を強いかねないとの危惧から、いかにそのコストを低減させるかにあったのだと思われる。その結果、「措置」から「契約」に、そして「施設介護」から「在宅介護」に変わり、入所待機者の増加を生み出し、悲惨ともいえる在宅介護の現場が出現したのである。

これを改善するには、憲法の理念に沿った「社会福祉基礎構造改革」の新たな見直しを実施することである。しかし、改革に際して改めて重要なことは、国民に、社会を良くするには、自らの「権利」のみ主張するのではなく、権利に見合う「義務」を果たすことが必要であるとの認識が必要である。それは必要な費用を積極的に国民も負担することである。つまり諸保険料の増額を受け入れ、福祉目的税による増税を容認することである。なお、その際、国民間で格差が拡大しているが、より豊かな層の人々はより大きな負担を、相対的に貧しい層の人々には、その負担は限りなくゼロに近い形で課すように心がけるべきであり、同様に、より健康な人は、病弱な人や障害を持った人々に対して、心から応援する気持ちを持ち、また、ボランティア活動等を通じて積極的に相互助け合う姿勢を示すべきである。単に、生活環境が悪くなったのは政府の責任だとする責任転嫁論ではなく、国を支えるのは、国民一人ひとりの責任であるとの認識の醸成が必要である。このように国民が粛々と義務を果たしてゆくことができるなら、国民一人ひとりが安心して、安全に暮らせる国となるのではなかろうか。

以上


2009年10月5日

約束履行の重み

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 11:06 AM

私は30代後半、ロンドンのシティー(金融街)で働いていました。その時、債権売買や資金取引は、電話での口約束だけで行っていました。この口約束は、ロンドン証券取引所1801年以来の格言にもなっていて、その格言は「私の言葉は、私の信用(MY WORD IS MY BOND.)」というものです。この格言が、現在の今にも受け継がれている理由は、お互いが約束した取引は、すべて約束通りに実行され、万一、約束が間違っていたなら、売り買いを逆にして問題解決を図っていたからだと思われます。つまり当事者にとっては、約束したことは必ず履行されるという「信頼と安心感」があったからでしょう。

太宰治は「走れメロス」の中で、メロスが、親友との約束を履行することは、命を懸けるに値するもので、人間にとって何にも代えがたい大切な一種の「信頼の証」でもあると伝えています。

さて、わが国では民主党政権が誕生しましたが、この新しい政権へのお願いは、「無駄の排除」より、たとえ不条理な約束といえども「約束を履行する」ことの方が、高い次元での社会規範であることを、肝に銘じて、政権の運営に励んでいただきたいことです。政府の約束不履行は、自由主義体制を崩壊させ、政府の独裁体制の形成につながり、これは結果として国民の政府に対する不信感を醸成することを危惧するからです。

以上


2009年8月2日

「濫給」停止と、「漏救」防止

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 11:06 AM

終戦直後の第1回国会労働委員会(昭和21年10月7日開催)において、日本社会党の労働大臣米窪滿亮は、「働くよりも國家によって保障された方がいい、こういうことになれば、(中略)、惰民が起る。(中略)、日本の今日の財政基礎は惰民を養成するほど、(中略)、餘裕は、もちろんない。」と、政治家としての十分な見識を示す答弁をしていた。

ところが平成21年8月の総選挙における各党マニフェストでは、支援しなくてもよい世帯にまで支給するといったバラマキともいえる国家の役割を逸脱した「濫給」が氾濫している。

「濫給」よる財政負担は、回り回って国民、とりわけ若い世代に付け替えられるが、今のような国家財政が危機的な状況にあっては、これ以上の負担を将来に先送りすることは許されない。また、米窪の言にもあるが「濫給」は惰民を養成することから、人々は働かなくなり、結果として、日本経済を停滞させることとなる。

以上このことから、国民は自らを正し、今こそ「濫給」を停止し、救済のネットワークから漏れた本当に貧しい支援の必要な人々へ、手を差し伸べるべきであり、「漏救」防止こそが、格差を是正するためにも必要である。それは国民に生きる自信を与え、国家に対する信頼感を醸成することとなるのである。

以上


2009年6月5日

高齢社会における死者数増加が招く社会福祉・医療体制の危機について

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 11:05 AM

平成21年6月3日厚生労働省は、人口動態統計(概数)で、昨年わが国で生まれた人の数が1,092千人、亡くなった方が1,143千人となり、この結果、わが国の人口は51千人減少したことを報じた。

平成18年12月国立社会保障・人口問題研究所は、わが国の将来の推計人口を発表した。その中で、平成30年には1,384千人の死者数となり、昨年対比241千人も増加し、平成40年には、死者数が1,571千人と同じく428千人も増加すると推計している。

高齢社会における高齢者が故の寿命到来は自然の摂理ではあるが、この死者数の増加は、高齢者の日常生活を支えるというセイフティーネットとしての社会保障体制の充実が、今以上求められるのは当然のこととしながらも、国民が人生の終末を迎え、死に至るまでの一定期間に、お世話になる社会福祉サービスや医療体制の充実が、喫緊の課題であることを示している。

人間が死に直面したとき、生きるための支援とは別の「安穏さや安らぎ」を求めるのではないか。死に至る場所が十分確保されていないとき、その人は不安を持つのではないか。

現在、国家財政は危機的状況にあり、高齢社会のための社会福祉施設や医療機関の充実・増設には十分対応できていない。しかし、このような死者数の増加に積極的に対応することこそが、将来の国家を支える人々に自信や勇気・やりがいをもたらすのではないかと思われる。ついてはこの死者数の増加に積極的に対応する支援体制の構築が望まれる。

以上


2009年3月15日

世界経済「後退の始まり」としての認識の必要性

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 11:04 AM

昨年9月のリーマンの破綻は、レバレッジを利かした米投資銀行のビジネスモデルの崩壊を招き、世界的な金融不安が発生した。その処理として、米英を初めとする各国は、巨額の資金をつぎ込み、各国金融機関を救済せざるを得なくなり、この事態は、各国株式市場の株価急落をもたらした。ここに「100年に1度」といわれる未曾有の世界的景気後退が始まったのである。

2009年3月14日ロンドンでは、このような状況を克服すべく、G20の財務省・中央銀行総裁会議が開催された。「国際金融不安解消」と「世界経済に対する景気対策」が論議され「成長が回復するまであらゆる必要な行動をとる用意がある」と共同声明が採択された。

しかし、この二つの問題を解決するには、なお巨額の政府資金が必要となるが、資金調達の可能性を危惧する意向が反映されている結果か、具体的な数値目標が提示されなかった。

資金調達ができなくなることは、そのまま問題解決の遅れとなり、景気回復に時間がかかることを意味する。このような懸念の存在は、国民・企業にとっては「100年に1度」といわれる由縁の世界経済の「後退の始まり」がスタートしたことであると解釈し、対応しておくことが楽観的にとらえるより安全ではないか。

そして、国民や企業は、急激な景気後退の嵐を避けるため、今後1~2年程度の期間に必要とする資金を、今すぐにでも調達・確保しておくことが、肝要であろう。政府からの支援を待つことも必要であるが、まずは自助努力による生き残り策を、金融面で考える必要がある時と思わる。

以上


2009年1月6日

「家庭・家族」の役割・機能の見直しと再構築

Filed under: 岡田登史彦の思い・感想 — admin @ 11:03 AM

サブプライムローン問題に端を発した国際金融不安の増大は、世界経済に「100年に一度」といわれる経済の後退をもたらしており、その影響は、アメリカの3大自動車メーカーが政府に救済を求めるまでに発展している。

日本国内では、生産調整を必要とする大企業を中心に、非正規雇用労働者の解雇が相次ぎ、改めて「格差社会」の実相が浮き彫りにされ、その過程で、日本国憲法第25条において認められている国民の生存権に対する制度の不十分さ・脆弱さが問題となっている。

もともと国家の生存権の保証は、国家が健全な状態で運営されているときにのみ有効と考えられているが、今回の国際金融不安により、アイスランドは、実質的に財政破綻状態に追いやられ、同国の社会福祉や社会保障体制が大きく揺らいでいる。

アイスランドのように、「公的責任」ともいえる制度や機能を、財政破綻を理由に放棄したり、また、日本の場合、財政破綻を免れるため歳出削減策が強化され、「公的責任」が縮小されることが十分考えられる。この放棄・縮小された「公の役割」は、最終的に「私」の代表である「家庭・家族」が肩代わりせざるを得ないのであろう。

しかし、現在の「家庭・家族」は核家族化によりその機能や能力を大きく減退させており、「公の役割」を肩代わりするためには、早急に「家庭・家族」の在り方を見直し、再構築する必要がある。つまり一人ひとりが「家庭・家族」に対し何ができるかを見直し、働きかけることこそが、持続性ある社会を構築する一助となるのではないかと思われる。

以上


次ページへ »